2020年御翼11月号その3

         

認知症が進んでいても

 米国ミシガン州にある高齢者の施設に入居していたある婦人は、認知症が進み、親戚の顔すら分からなかった。この婦人は44年間、牧師夫人として仕えて来たが、実の息子が心臓発作のために亡くなったので、親戚が葬儀に連れて行った。
「どこへ行くの」「あなたは誰」「私に何をするの」と矢継ぎ早に尋ねるこの老婦人を、会場の最前列に座らせ、葬儀が始まった。前奏、祈祷、故人の略歴、弔辞と続き、最後に、牧師は詩篇23篇を読み上げた。「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。…」すると、力強い声が加わり、会衆をリードした。それは母親である老婦人の声だった。寝たきりであった婦人は、その時は女王のようなシャキッとした姿勢で、神の栄光に目が輝き、確信を持って口を動かしていた。「たといわたしは死の陰の谷を歩むとも、わざわいを恐れません。あなたがわたしと共におられるからです。わたしはとこしえに主の宮に住むでしょう。アーメン」全員が新しい希望で一つにされた。葬儀が終わると、年老いた母親は、棺の中の顔をじっと見つめ、「これは私の息子かい?」と聞いた。「ええ、母さん」と義理の娘が応えると、少し考えてから、母親は、「あの子は父さんと天国にいるのかしら」と言う。娘は、「そうよ、母さん。息子さんは父さんとイエス様と一緒に天国にいるのよ」と答えた。すると母親は、一言「よかった」と言って手を伸ばし、息子の顔をさわり、そのしぐさによって、あとは神にゆだねたことを示した。棺から離れると、母親は何も見ず、無意味な言葉を話す認知症の世界へと戻った。友人たちを見ても気づかず、ににこにこし、優雅にうなずくだけであった。
 この年老いた婦人は、周囲の者に大切なことを教えてくれた。認知症が進み、精神的機能が麻痺していると思われても、人のどこかに神と直接会話するための連結器があるのだ。祈りと御言葉に訓練され、信仰を実践することで、神とつながる回路が開かれる。年を重ねたり、末期の病気により意識的な思考が衰え始めたりした時、霊的な感受性は鋭くなるのだ。
 使徒の働きの中に、ステパノが殉教するときに、「天が開けて、人の子(イエス)が神の右に立っておられるのが見えます」(使徒7・55〜56)と言った。老齢のクリスチャンは、ステパノの場合のように、キリストが約束の栄光に満ちておられるのが見える、という体験をする場合がある。最期に近づくほど霊的感性は鋭くなっていく。私たちは皆、天国の現実性に不安を抱きがちであるが、高齢のクリスチャンに耳を傾けるならば、天国の現実性を見ることになるのだ。
 魂の問題が解決しなければ、世の中は腐敗するばかりである。政府もビジネス界の指導者たちも、教育機関も人間の根本的な問題は解決できない。人が神から離れているという事実がすべての問題の中心である。魂を新たにすることを専門の仕事としているところは、キリストの教会である。教会には福音がある。福音は人を変えることができる。教会には、正しい人間同士の付き合い、倫理と道徳の指針、聖書がある。教会こそが、世界の希望なのだ。
デイヴィッド・マッケンナ『親が子の手を求めるとき』(いのちのことば社)より


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